謙虚なひとは、卑屈ではない。考え方の前提が違うから。

どうも!トランペット、サックスなど派手な音を使ったを使った「ファンキー」な音楽。新しい時代を自分らしく楽しく生きるための「癒し」の歌詞。

そんでもって「ファンキー癒し音楽」のルーク野村です。

謙虚な人は、いっしょにいて気分がいい。常に一歩引いて我をはらず。自分の意見をするときも、他の人の意見も汲み取りバランスを取る。決める時は、決めるべき状況を説明し合意のうえ決定できるよう留意する。

それに対して、卑屈な人は、 ちょっと面倒だ。一歩引いて我を張らないところは、謙虚な人と似ている。でも、自分を貶めて消極的で、他人の意見にもコメントもせず黙っている。 何を考えているかわからない。

謙虚と卑屈は、表面上は似ているんだけど、根本的に違うんじゃないかな。

こんなことを考えているときに、卑屈にならないよう謙虚を避けている自分を見つけた。表面上、卑屈と謙虚が似ているから、卑屈を避けようと謙虚でなく尊大に振る舞う。

なんだろね、この思考は。 これじゃあ、単なる嫌なやつだよ。

この頃から、卑屈と謙虚は根本的に違うと気づき、その理由を模索し始めた。

模索の結果、謙虚な人と卑屈な人とでは、考え方の前提が異なることがわかった。この違いがわからないと、謙虚は卑屈という表面的な理解に陥るという落とし穴にハマる。

違いに気づいてからは、卑屈にならず謙虚であることができるようになってきた。

ということで、謙虚な人と卑屈な人との前提の違いについて、説明したいと思う。

■ 謙虚とは

謙虚の意味を、いまいちど確認してみよう。辞書などを調べると、以下のような定義がある。

  • 控え目
  • つつましい
  • へりくだっている
  • すなおに相手の意見などを受け入れる
謙虚なひとは、偉そうでなく、素直な態度。

一歩引いて、相手を立てる。偉そうな態度を取らない。素直な態度。

どんな時でも、こうありたいなぁと思う。

■ 卑屈とは

一方、卑屈の意味は、辞書などによると、以下のようだ。

  • いじけて、必要以上に自分をいやしめる
  • 自分を軽蔑して服従・妥協しようとする態度
  • いくじのない態度
卑屈なひとは、いじけている。

卑屈な態度とは、執拗に自分を下にするような態度なんじゃないかな。下になればいいんでしょ!というような態度。

拗ねている、という言葉で説明できるかもしれない。

■ 卑屈な人は謙虚でない

謙虚になりなさいと言われて、謙虚になろうとする。謙虚になるためには、一歩引き下がり、ひとの下になる、いう行動にでる。

たとえば、社会人のマナー講座で以下のような行動が、マナーある行動といわれていた。

  • 名刺を交換するときに、相手よりも下に名刺を出す。
  • 宴会で乾杯をするときに、相手よりもグラスを下にする。

なんともつまらないマナーだ。こんな表面的な行動でしか相手への敬意を表せないとは、残念だよね。

このように、形式的な行動でしか謙虚さを表現できないひとは、謙虚になろうとして卑屈になっている典型例。

ズバリ言うと、謙虚になろうとする態度が、卑屈なんだよね。

■ 卑屈な人の思い込み

卑屈な人は、謙虚になろうという想いの背景に、上下関係があるという思い込みがある。

なぜかというと、卑屈な人は自分が相手より下になろうとしているわけだから、上下関係があるという前提で生きている、といえる。

しかも、卑屈な人は上が偉くて下がダメという思い込みがある。

上が偉くて下がダメ、とは思い込みと気づこう

親から教わったのか、学校で学んだのか、社会がそうさせたのか。原因はわからんが。

だから、下になることに抵抗を感じ、拗ねちゃう。

■ 下ってダメなの?

そもそも、下になっちゃダメなのかな。別に上でも下でもいいじゃん。

そりゃ、勝負ごとならば、勝ちにいく。 勝ち=上、負け=下ならば、勝ち=上のほうがいい。

でも、勝負で勝っても負けても勝負ごとの前後で、その人の価値が上がりも下がりもしない。単に、勝った、負けた、という事実が残るだけ。

もちろん、勝つことで、賞金をもらえるプロの世界や、会社の盛衰が決まるビジネスの世界では、勝つことで市場価値が上がるので、勝つ方がいいに決まっている。

同時に、プロも会社も、マーケット=市場が認める価値が上がる・下がるという表面的な価値と勝負の勝ち負けが連動しているだけ。

個別の人間としての内面の価値は、勝負の前後で上がりも下がりもしない。

勝っても負けても
人の内面の価値は変わらない。

勝てばうれしいし、負ければ悔しい。でも、勝ち負けも含めて上とか下とか決めているのは人間や社会なんだから、本質的には、上でも下でもどっちでもいいじゃん。

■ 上下関係は必要?

ここまで理解が進むと、上下関係って必要なのかな。

上下関係がなければ、上も下もない。下になろう、という発想がない。

典型的な上下関係の例は、先輩後輩、上司部下、年齢の高低、などなど。

上下関係って、人間社会がつくった仕組み。人為的であって自然ではない。

チームや組織を活性化して能力を高め、成果を極大化するために、役割分担があるのは合理的だ。

でも、役割分担はあくまでも分担であって、冷静に考えると、上とか下とかないんだよね。

会社を例にとると、社長や部長や課長という職制は分担を表すのであって上とか下とか関係ない。組織への貢献度に応じて、貰う給与に上下があるのは合理的だが、あくまでも給与の上下の話。

職制は役割分担を表す。上も下もない。

社員それぞれの人としての価値は、上も下もない。

■ 上も下もない、ありよう

ここまで考えが進むと、上下関係とは、人間社会が勝手に決めた人為的な仕組みであることに気づく。

上下関係は、あってもなくてもいい。必要なときに使う、便利な道具のようなもの。道具にこだわって過度な思い込みを持つのは、避けたい。

思うに、謙虚な人は、上下関係がないという前提で生きている。仮にあったとしても上下関係への意識が希薄で、上が偉くて下がダメという発想がない。

上下関係へのこだわりをなくそう

そもそも、上も下もなければ、誰にでもへりくだり、誰の話でも素直に聞き入れることができる。

こんなありようで生きることができれば、謙虚に生き、かつ、卑屈にならない。

■ 謙虚になろうとするのが卑屈

別の言い方をすると、謙虚に「なろう」とすること自体が、卑屈なんだよね。

なぜかというと、上も下もないという思考の人は自然と謙虚になるので、あえて謙虚に「なろう」とは思わない。

つまり、謙虚に「なろう」と考えて行動する時点で、上が偉くて下が卑しいという上下関係があることを前提にしているので、何をしても卑屈になる。

謙虚に「なろう」と行動するのではなく、謙虚な人のありようを理解し、謙虚な人の考えの前提を受け入れることが、謙虚になる、ということなんじゃないかな。

■ まとめ

謙虚な人と卑屈な人とでは、考え方の前提が異なることを説明した。

謙虚な人は、上下関係への意識が希薄で、上が偉くて下が賤しいという考えがない。それに対して、卑屈な人は、上限関係へのこだわりの意識が強く、上が偉くて下ではダメだ、と思い込んでいる

俺自身も、いまだに上下関係への意識が残っているので、卑屈になってしまうときがあるが、上下関係へのこだわり、思い込みを手放す工夫を続けている。

ルーク野村の提唱する、新しい時代に自分らしく楽しく生きるためにも、上下関係への思い込みは手放して、楽しく、謙虚に、素直に生きていきたいなぁ、と思う。

思い込みを手放して、自然と謙虚でありたいね。最後まで読んでくれて、ありがとう!

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